宮城家の一枚

宮城保吉

会員 宮城勇(続柄・子)
戦没者名 宮城保吉(みやぎ・ほきち)
戦没地・没年月日 クェゼリン島(19/2/6)
所属部隊 運輸本部

父を想う 沖縄を想う
宮城勇

父宮城保吉は支那事変に応召、復員して間もなく勃発した太平洋戦争に職業軍人として参戦、マーシャル方面クェゼリン島にて戦死した。「長男(筆者)が生まれたから大安心」。お国のためにもうひと働き、と勇躍出征していったという。
当時2歳未満の息子にとって、父の声や表情など何一つ記憶に留まるものはない。軍服に身を包み、両手で軍刀を携えて立っている一枚の写真だけが、唯一父を知る手がかりとなっている。
終戦を迎え疎開先から引揚げ、焦土と化した故郷浦添でのテント生活を始めて暫く経った頃、一通の封書が届いた。父の死亡通知だった。「宮城保吉昭和19年2月6日時刻不詳内南洋方面で戦死第二復員局人事部長川井巌報告昭和22年6月25日受付」この文章を書くため戸籍謄本で確認した父の死亡を知らせる内容の全文である。27歳1月の人生であった。
戦況がいよいよ厳しくなり、私達家族は熊本県に疎開した。母幸子(当時28歳)、長女トミ(11歳)、次女初子(7歳)、長男勇(3歳)の4人家族である。父は既に出征していて留守、同居していた祖父母からは疎開を固辞され、結局母子だけの疎開となったのである。後で知ったことであるが、その時父は1年半も前に既に亡くなっていた。
疎開先は八代郡龍峯村字興善寺にある光厳寺であった。現在の興善寺町光厳寺である。8家族・総勢30人位がお世話になっていたと母は言っている。戦時中の極限状態の中で、どの家族も着の身着のままで、不安と強い虚脱感を抱きながらの逃避行であった。そのような家族を光厳寺と町民は温かく迎えてくれた。全国的に戦雲が激しさを増していく中、町民の生活とて決して楽ではなかった筈である。疎開生活は2カ年2カ月に及んだが、滞在中家族の食事その他で出費を求められた記憶はない、とのことである。国や沖縄県の援助も多少はあったであろうが、戦時下のこと、些少の域は出なかっただろうと推察する。現在95歳の母は、今でも疎開の話になると必ずこのことを口にし、姿勢を正して感謝の意を表す。
当時大日本帝国政府の命により急遽九州各地に学童や一般住民の疎開が奨励された。資料によると集団学童疎開約6,900人とある。我々のような一般疎開者の数を加えると、かなりの人びとが宮崎県、熊本県その他で世話になっていたことになる。

沖縄戦について少し触れておきたい。幸運にも疎開先では、「戦時」を感じないほど平穏な日々を送ることができた。しかし郷里の沖縄では、言語に絶する壮絶な戦いが繰り広げられていた。昭和20年4月1日に本島の読谷、嘉手納海岸に上陸した米軍は、瞬く間に各地を制圧した。18万3千人の兵員と約1,400隻の艦船、しかも後方には54万人の補給部隊を擁するアメリカ軍との戦いであった。日本軍との物量の差は歴然で、従軍記者アーニーパイルは、その様子を「まるでピクニックのようだった」と伝えている。6月23日に牛島中将、長参謀長の自決によって組織的な戦闘は終結する。戦野で死んでいった人たちの正確な数は不明とされているが、住民死者12万2千人余(当時の人口の約27パーセント)、日本軍(本土出身)約6万6千人余、米軍1万2千人余とも言われている。
全住民がいわゆる捕虜となり、家なし、食なし、衣類なしの生活を余儀なくされた。昭和6年の柳条湖(溝)事件に端を発した満州事変、続く日中戦争、太平洋戦争と15年戦争となり、沖縄は昭和20年の終結まで、貧困の後は戦争で、島は原形を失うほどに壊滅的状況を呈した。また太平洋戦争中、沖縄はどの戦場でも類を見ない非戦闘員である住民に、致命的な犠牲を強いた地域・戦場としても知られている。

沖縄は去る5月15日本土復帰40周年を迎えた。敗戦で米施政権下に置かれた沖縄は、それまでの20数年余、日本から切り離されたままであった。鹿児島への修学旅行もパスポートを持参しなければならなかった。アメリカ軍が発行したB円(円表示のB型軍票)が法定通貨となり、交通方法も米方式の右側通行であった。
復帰40年を経て、確かに沖縄のインフラは見違えるほど整備された。年間観光客数は復帰前の56万人から553万人と約10倍にも増え、2020年までには1,000万人を目標に掲げている。大戦で唯一地上戦を経験し、焼け野原となった県南部の摩文仁一帯も、今では見事に整えられ、平和祈念資料館・平和の礎(いしじ)には年中多くの参拝者や観光客の姿が絶えない。本島北部の西海岸沿いには高級リゾートホテルが林立し、世界各地の旅行者が訪れる。復興予算として、日本政府が巨額を投じた成果として、素直に評価したい。
しかし米軍基地は復帰前とほとんど変わらないままである。全国の米軍施設の74パーセントが小さな沖縄に集中している。都道府県別面積に占める比率で最も多い静岡県でさえ全体の1.23パーセントだが、沖縄県は10.21パーセントと飛び抜けて多い。基地の中に沖縄がある、と言われる所以である。約1万5千人余いる海兵隊・米軍関係者による事件、事故も相変わらず日常的に繰り返されている。
戦後初の知事となった屋良朝苗は「基地ある限り沖縄の復帰は完了したとは言えない」として、県民自治を基調とした平和で明るい豊かな県づくりを切望した。爾来40年、6人目の知事誕生を迎えたが、核抜きも本土並みも未だ実現されていない。沖縄県の厳然たる現実である。
太平洋戦争の勃発で、戦火を避けて熊本に疎開した幼児も、父の人生の2.5倍超を生き今年70歳を数えた。叶わぬ夢であるが、思春期に、青年期に、父保吉と会話を楽しみ議論を重ねてみたかった。二人で力いっぱい作業をして同じ汗を流してみたかった。そして時には酒を酌み交わしつつ、父の人生観など静かに聞いてみたかった。無念にも異国の地で倒れた父もまた、同じ思いではなかったか。
去る3月31日、父の御霊が眠る靖国神社の慰霊祭に初めて参列し、亡き父を想い、戦後67年を迎えた沖縄の今を振り返ってみた。