イントロダクション

1944年(昭和19年)2月26日付東京新聞は一面トップ記事で「クエゼリン・ルオット両島守備部隊全員(将兵4千5百、軍属2千)壮烈なる戦死」と、大本営発表を報じている。

 太平洋戦争中、クェゼリン環礁にあるクェゼリン本島とルオット島を、日本軍はマーシャル諸島の中枢基地にしていた。米軍は同諸島東部のミレ、マロエラップ、ウオッチェ、それにヤルートの4環礁を襲うだろうと日本軍は予想していた。ところがミニッツ太平洋艦隊司令長官の「飛び島」作戦によって、米軍は4環礁を素通りしてクェゼリン、ルオット両島に直接上陸してきた。すでに砲爆撃で大半の人命と施設に打撃を受けていたルオット島は、44年2月1日に上陸した米海兵隊にたちまち制圧された。

 クェゼリン本島では、1944年2月6日まで5日間の戦闘が続き、アッツ島、キスカ島と勝ち抜いてきた米軍歩兵集団を中心に2万人余が戦車を盾にして侵入してきた。日本側は軍属を除くと4千5百人。米軍はその4倍の兵力だった。形勢逆転は無理とみた守備隊首脳部は短銃で自決し、その銃声を耳に爆弾を抱えて戦車に突っ込む一団、将校5人は日本刀を振りかざして戦車に立ち向かい戦死した。朝鮮人多数を含む1千5百人の軍属の大半も玉砕した。

 大戦後、米ソ冷戦の進行とともにクェゼリン環礁は米軍のミサイル実験場と化した。内海はカリフォルニアから発射されるミサイルの着弾地であり、環礁内の島からはミサイル迎撃ミサイルが発射されていた。現在でも本島内に自由に立ち入ることはできない。

>>詳細はその他のドキュメント「南十字星」をご覧ください。

クェゼリン島,椰子の木

激戦の中で一本だけ残った椰子の木(クェゼリン島)