本会が設立されるまで、毎年2月6日に靖国神社にお参りにくる人々がいました。毎年顔を合わせるので誰彼となく話をするうちに、それはマーシャル群島のクェゼリン島で玉砕(昭和19年2月6日)した英霊の遺族であることがわかりました。
今までは個々にお参りしてきましたが、これからは一緒にお参りをしましょうということになり、昭和38年2月6日、靖国神社永代神楽祭のあとクェゼリン島遺族の懇談会が行われました。林茂清氏から遺族会の結成が提唱されて全員が同意して設立準備作業が始まりました。
クェゼリン島の主碑
まず、クェゼリン島で玉砕した英雄の遺族を探し出すことから着手します。遺族6,700余名の捜索作業は専ら浮田信家氏(元海軍大佐)が当たられました(詳しくは「環礁」1号をご覧ください)。
昭和38年6月29日、「クェゼリン島戦没者遺族会」を設立。初代会長に林茂清氏が就任されました。戦没者の中には元朝香宮鳩彦王殿下の第二王子である音羽正彦殿下や、元首相の石橋湛山氏の二男石橋和彦氏がおられます。昭和39年2月6日、九段会館での前夜祭に続き、靖国神社で800名の遺族が参加して20年祭が盛大に行われました。
昭和40年にはルオット島、ブラウン島の遺族が加わり、昭和41年にはウオッゼ島、ギルバート諸島の遺族が加わることによって会名を「マーシャル方面遺族会」と改称しました。戦後クェゼリン島は米軍のミサイル基地となり、米ソの冷戦状態により戦略上最重要な島となっていました。基地への立ち入りは厳しく制限されており、米国人でも特別な許可がなければ上陸はできませんでした。ましてや日本人の墓参目的の上陸などは許可の対象になりませんでした。
遺族会の悲願であったクェゼリン島への慰霊碑建立嘆願は昭和42年3月に承認されました。昭和42年4月22日浮田信家、佐竹エス両氏が現地調査と遺骨収集、現地慰霊を目的に横浜から貨物船に乗り、約半年の日程でサイパン経由、マーシャル諸島、マキン、タワラ、ナウルなど13の島の戦跡を歴訪、それぞれの訪問地で遺骨を集め埋葬して、日本から持参した木碑を建てて慰霊祭を行いました。この訪問は行く先々で歓迎され、現地の人たちとの心の交流を果たしました。このとき、クェゼリン島だけは上陸できませんでした。
昭和43年6月9日いよいよ慰霊碑の制作が始まりました。碑の正面には各都道府県から集めた銘石を嵌め込み、日本地図を象嵌しました。裏面には戦没者の冥福を祈る銘が刻まれ、碑の中には戦没者の氏名が書かれた霊璽簿が特製のステンレス永久容器に収められました。
昭和43年8月17日に完成し、清祓式を済ませて梱包された碑は昭和43年10月9日貨物船に積まれて横浜を出航、昭和43年12月1日組み立てを完了。基地司令官始め、慰霊碑建立に携わったすべての人々によって厳粛に除幕式が行われました(組み立て作業はすべて現地で働く人たちのボランティアで行われた)。図面と仕様書だけを頼りに建立した慰霊碑のできばえについて、後に訪れた慰霊団は、その正確さ、完璧さに驚き、感激した。
昭和50年、慰霊碑建立より7年を経て、ようやくクェゼリン島への上陸が基地司令官より本会へ許可されました。
早速慰霊団が結成され一行36人は、昭和50年8月10日羽田を発ちホノルルを経由して12月にマーシャル諸島の首都マジュロ島に到着。15日、ジェット機で30分足らずで玉砕の島クェゼリン島を訪れました。入域許可を得たとはいえ、これはジェット機の給油時間を少し延長しての約45分間の墓参を許すというものでした。慌しいお参りでしたが、皆英霊に会えた喜びに感激しました。慰霊碑はきれいに清掃された芝生に真ん中にあって、墓地の入り口には赤いペンキが塗られた鳥居が立っていました。
米軍基地内にある慰霊碑は手厚い管理の下、いつもきれいに維持管理されています。米軍関係者の皆様には心より感謝と御礼を申し上げます。
以後、米軍当局やマーシャル諸島共和国の協力を得て、現地慰霊を実施しています。近年はクェゼリン島内のロッジに宿泊が可能となりました。本会は、毎年4月に靖国神社で慰霊祭を、7月15日には靖国神社で永代神楽祭(命日祭)を斎行しています。現地でもできる限る慰霊祭を行って参ります。また「本部だより」を年に2回発行して、会の活動報告の場としています。